やくざの手下になりそうだったあの頃の話

f:id:careersg:20171015004102j:plain(ブランコに乗ると大学生時代に座ったかつて存在した西池袋公園のそれを思い出します)

 

人は新しい道に歩みだそうとするときには、今までの自分の道程を振り返るものです。

そうでした。学生時代、仕送りはほとんど食費と本代に消えていた時、予備校時代に知り合った下宿の知り合いに誘われたことがあります。「いいアルバイトがある・・・一度説明会に来ないか」そして、池袋のとあるビルのホールに向かいました。そこは満員で、若い女性が、壇上で毎月の収入が100万円だと語っていました。仕事は、車のオイルを売るのだけれども、その前に仲間を誘うわなければならないと。ホールを出ると知らない若いやくざ風の男に喫茶店に連れていかれました。そして、お金があればご飯も食べられるし、本もたくさん買える。だから仲間を紹介しろ、と。そしてわたしはお金がほしくて、浪人時代の知り合いに声をかけたのです。初期投資は7万円。そのやくざに支払いました。奨学金をまるまる。気が付けば、わたしはやくざの手下のようでした。はじめは食べたこともないような焼肉屋をおごられ、優しくされましたが、いつになったらお金が入るのかと尋ねると、「もっと知り合いを紹介したらな」と。怖くなりました。そして、逃げ出しました。すると若いやくざはわたしの住むぼろアパートを探し当て、追ってきたのです。わたしは、恐怖のあまり、数日、友人のアパートに泊まり歩き逃げまくるのみ。そして、テレビのニュースで知った驚愕の結末。彼らが逮捕されたのです。詐欺罪で。わたしは我に返り、激しく後悔しました。7万円という貴重な奨学金は戻ってきませんでしたが、やくざの手下にならずに良かったと安堵しました。被害者から加害者になれば逮捕されてしまったかもしれません。

貧しさは、時に正しさを忘れる要因になること、そして自分の心のどうしようもない弱さがあることを思い知らされた時代でした。

今、他人様のメンタルケアや就職サポートに関わるとき、まず相手に求めるように自分に対しても過去の自分と向きあうことを求めなければと思うのです。

それにしても、もしわたしがやくざになっていたら、人生はどのように展開していたでしょうね。

 

元校長

 松本 利勝

学生が就職支援会社〇〇に誘導される仕組み

f:id:careersg:20171012094150j:plain(キッチンの豆苗は三回は生えます。90円です)

秋になり、まだ就職内定が決まっていない学生さんや、転職を考えているけれどもやや躊躇している方々が頼りにするのは何でしょう。大学のキャリアセンターでしょうか。転職支援の会社でしょうか。確かに、それらのスタッフに頼ることもうまく利用すれば、力になるでしょう。

多くの就職支援の会社はテレビやネットでCMしています。わたしも、興味がありますので、ある日、それらのネットにアクセスしてどのように支援しているのかと調べようとしました。そしてアクセス・・・・さて、どのようなリアクションと遭遇したでしょうか。

当然のことですが、サイトの最初はキャッチーな興味をそそるような情報が少しだけ読むことが出来ます。しかし、さらに読みたいと思うなら次のクリックが求められます。そしてクリック。すると、さらに情報を知りたければ電話番号の記入。そして、数日後に先方から電話がかかり、高額の就職支援講座の受講の勧誘。内容は一般的な基礎的なキャリア支援。という営業の仕方がわかりました。

就職がなかなか決まらず、不安にさいなまれている人々が、その魅力的な巧みな勧誘に思わず飛びついてしまうのもわかります。良心的な業者なら良いのですが、そうでなければ失望が増幅されてますます落ち込むことになるでしょう。その見分けは素人では難しいので厄介です。

就職に必要なことは、何でしょうか。誰でも知っていることですが、自分を知ることです。が、自分を知ることは自分だけではなかなか難しいのですね。元来、完全に自分を知ることなど不可能に近いでしょう。自分という人間を理解することはそんなに簡単なことではありません。とは言え、考え過ぎても何も始まりません。とりあえず、街に出て、それから近所のスーパーにでも行って、例えば「豆苗」なと゛購入し、水をあげ、三度目の収穫を楽しむのも良し。そして、もう一度、気持リセットして、焦らず、信頼できる人に相談してみましょう。笑顔がもどれば、自分への理解を深める何か良いことが。何とかなります。楽観性が最強。

 

元校長

松本 利勝

 

 

わたし、失敗しないので?

テレビの人気ドラマは、エンタテインメントとして良く練られて、制作されている方々の意気込みを感じます。さすがにプロだな、と感心します。相棒も科捜研も、ドクターXも、確かに面白いのです。

ひと昔前は熱血教師ものが流行りました。あの金八先生も相当な視聴率だったと思います。しかし、あのようにひとりひとりの生徒を愛し、自己犠牲的にプライベートの時間までも生徒のために費やす先生は、今や教育ファンタジーでしかありません。金八先生が放課後、堤防を生徒たちと歓談しながら帰宅するシーンは象徴的です。あの明るい時間帯に帰宅する先生は居ませんから。普通であればクラブ指導、会議、小テスト採点、教材研究、印刷等に追われ、早くても7時は過ぎるはずです。もちろん、泣いたり笑ったり、ドラマチックな場面は現場にはあります。わたしも若い日、神戸の学校から東京の学校に赴任する際の最後のHRで、生徒たちに「俺らを見捨てるんかい!」と泣かれて胸が熱くなったことがありました。しかし、日常はドラマチックなことはありません。互いに信頼し合いましょうね、などという言葉にリアルな説得力はありません。第1、生徒たちはクールです。話せば分かり合える、やれば必ず出来る、人は信じることが大切、ひとりひとりがかけがえのない存在といった、道徳的正しさも時に教室では虚しいファンタジーです。生徒たちは、知っています。最近のアニメやゲームの物語もそのような臭いセリフはギャグになりつつあります。

確かに多くの先生たちは、生徒たちを思い、努力を重ねています。しかし、現場はファンタジーではありません。偽善的、表層的な道徳観念など通用いたしません。先生は、時に失敗もします。失敗しながら、何が生徒のためになるかチャレンジしています。

高校生の講師への足蹴り事件について

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アケビの季節です。東京では大手のデパートなどでアケビが売られているのですね。驚きです。アケビが売られているとは。あれは、山で取りに行って好きなだけ食するものだったはず。ひょっとして都会の人は、アケビの味を知らないのではないか、そう思い知人に尋ねてみました。すると、ありません、と。紫色に皮が色づくと、カパっと、開いて種が詰まっている柔らかな不思議な感触の乳白色の実が美味しく、それを一口でほおばるのが、福島の田舎で育った子供の私の日常でしたが。

調べてみますと、皮も炒めたりすると美味なるものと。栄養もビタミンなど豊富です。今年の秋は是非、アケビ料理を。

ところで、先日、博多のある高校で生徒が若い常勤講師の先生に暴行している映像がマスコミに流されていました。高校生は県警に逮捕されたとのことでした。報道では、いつものように校長がコメントを出し限度を超えた暴力なので被害届を出したのだと。ネットではすでに実名が出され、論評もされているという状況です。講師の先生は新任で事件が拡散して精神的ショックを受けているとのことですが離職したり精神疾患にならないか心配です。毎年、その教育現場で追い込まれていく教師が異常に増え続けているからです。(統計では2014年度5045名。1990年1017名)統計は最低限の数ですから、実数はその何倍かと思われます。

わたしも初めて新任で赴任した高校が偏差値30から40程度で、校内暴力が日常的にありました。当時、私は生徒からののしられたり、暴言を言われたり、笑われたりしましたが暴力だけは受けませんでした。また暴言が飛び交っても、周りの生徒があざ笑うような陰湿なことはありませんでした。あの時代の高校生は筋を通し、反抗する理由がわかりやすかったし、単純であったように思います。モンスターペアレントもいませんでした。ただ、先輩教師からは、「生徒を抑えられないのは力がないからだ」と言われ、大変落ち込んだことを覚えています。しかし私の場合は相談できる先生や仲間がいましたので、救われました。カウンセラーの先生からもサポートを受けることができる恵まれた環境にありました。

この問題に対しては、教育行政、生徒個人とその家庭環境の問題、教師の力量の問題、学校の教師と生徒をサポートする仕組みの視点など複眼的な視点から分析をしなければなりません。しかし、この学校の教師の立場からすると、絶望的な状況であることは間違いありません。

体育系の強面の教師ならば、初めからその強圧的な雰囲気で静かな授業が成立するかもしれませんが、教育的な中身はありません。ただ、怖いから我慢して静かにしているだけですから。わたしのように見るからに喧嘩が弱そうな教師はも甘く見られ、生徒への注意も無視されておしまいです。そして、生徒からバカにされ注意をすればするほど、クラスに笑いが充満します。良心の痛む生徒も、ただ我慢しているだけです。

さて、この新任の先生は、教頭先生や生活指導の先生に相談していたのでしょうか。相談できるカウンセラーはいたのでしょうか。毎日、家に帰り、どのような思いで通勤していたのでしょうか。胸が痛みます。

偏差値が高く、生徒が自分から学ぶような高校ではこのような問題は少ないと思います。勿論、どの学校にも問題はいろいろありますけれども、授業がまったく成立しないほど荒れることは稀です。ですから、そのような学校の先生たちには、荒れた学校の先生たちの苦しみは理解し難いと思います。同じ「教育現場」といっても問題意識の在り様は全く異なるのが実情なのです。これはわたしの経験値です。(今、世間に飛び交うアクティブラニング、人格教育、ダイバーシティ、グローバル、国際交流、平和教育等の言葉も日々、授業が成立し難い教室で悩み続ける先生たちには空しい響きとなります。いわゆる底辺校の先生たちの苦しみはいわゆるエリート高校を卒業している先生、エリート高校の先生には容易に理解し難いでしょうから先生たちの研修会などでその痛みを共有することも至難の業なのです。)

 

わたしの願いは、学校にも頼れない、誰にも相談できず、かつひとり密かに悩み苦しむ先生たちの叫びに耳を傾け、一緒に活路を見つけたい、ということ。大きな助けにはならないでしょうが、若き日に荒れる生徒たちと格闘した者として何か力になれないかと。

このプログもその扉の一つです。

 

元 校長

松本 利勝

 

 

 

 

逆算して生きる物語

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とある喫茶で☕を飲んでいます。珈琲を飲みたいということより、気分を変えたいと。貧乏学生の頃、食事もろくに取れないくせに試験勉強も論文も喫茶でした。その時代からの癖かもしれません。今も。

ところで還暦を過ぎたわたしの友人たちは定年しているか、その間際でこれからの人生をいかに生きるか模索し始めています。テレビ番組も人生の終焉を描く石坂浩二さん主演「やすらぎの郷」が話題ですね。倉本聰氏の作品です。再放送を見ますと先日亡くなった野際陽子さんなども出演されていましたし、現実と虚構の入り混じるドラマです。倉本聰氏ご自身も高齢になり、だからこそリアリティとロマンが交錯する味のある作品になっています。かつての名優たちが晩年を過ごす高級な高齢者施設が舞台という設定です。きょうの再放送は「死にゆく人と残された人の死を迎えるためる覚悟と納得感」でした。納得して人生の最期を迎えることが出来るかどうか。それが問われませんか?と倉本氏から。

若き日、子育て時代には容易に自分の最期から逆算して、今をどう生きるかをゆっくりと考えることは少ないかもしれません。しかし、やはり、いつかは迎える人生の最期。その時に自分を納得させるものが自分の中に残せるか。時には考えなければと思うのです。

映画監督大林信彦氏も末期がんの中で今、映画製作に意欲をもって生きています。おそらく人生最後の作品。写真はその大林監督の澄み切った眼差し。何を見ているのでしょうか。

近年、40代、50代の転職が増えてきています。転機は人生のドラマですね。わたしも定年前に専任教員を辞して、新しい人生に踏み出しました。リスクある転職です。今、その転機の時代をオンタイムで生きながら、問うのは人生の逆算からの今のリアジュウです。すると、人生の定年は、命が尽きる時。人生の定年までどう生きるか。転職という自分の物語もそれを考えなければ納得のいく決断になりません。 p>

「自分の人生の物語」をどう描くか。作者は自分自身。演出者はわかりません。しかし、とにかく書き始めて、そのように演じなければ何もドラマがはじまりません。観客はもちろん自分自身です。

さて、珈琲も飲み干しました。これから90歳ちかい義母と一緒に食事を。

 

元校長

松本 利勝

 

 

実はわからない、なるようにしかならない世界

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(恵比寿駅西口のアイス屋さんの団子アイス)

 

暑い日は、アイスが恋しくなります。恵比寿を散策していると、あたたかい草団子とアイスのゴールデンペアがわたしを魅了していました。なんとなく懐かしくもあり、モダンでもある。モダンー。この言葉も今や、古典的ですが。冷たいものと暖かいものの組み合わせは口の中で不思議なハーモニーを奏でますが、それとは異なりこの世界はハーモニーもなく、けれども面白くも不思議で、かつ不条理で、しかし希望に満ちているように思うのです。

人は、しかしこのように説明がつかないことを経験すると、不安になり、そこに体系的合理的な説明を求める傾向があります。それは時にナチスのような全体主義の世界観に人々を誘い込むようになることもあります。安易に不安を解消するようなものに魂を奪われないように注意深くあらねばなりません。

 

わたしたちの世界は、物質的な意味においては、科学的実証的研究を積み重ねることで、日々進化し続けていくのですから、この宇宙の構造、仕組みそのものは分子、原子、素粒子等のレベルで説明されていくでしょう。世界の因果関係の解明です、

ただ、心の問題は、厄介です。心だけは、脳の働きと割り切れないのです。確かに、脳の働きが心なのかもしれません。しかし、たとえそれが真実でもわたしたちの心の苦悩、不安は解決できないのです。学校や会社に行けなくなった人を類型化することはできても、個々の問題には必ずしも該当しないからです。

この世界は必ずしも原因と結果が明確であるわけではありません。今、このように苦しいのは、きっと原因があるだろう、と合理的に問いを立てますが、今のこの自分の現実の理由を明確に理解すること自体無理があります。こころの構造はそう単純なものではありません。もちろん、だからといって、理性を捨て、安易なカルト的宗教にはいりこむなどは愚の骨頂です。

では自分が不安になったとき、悩んでしまったとき、解決が見えないとき、どう対処するか。心療内科では薬物療法、○○療法やカウンセリングなどで一定の効果的な対処法を示します。それは医師の力量が確かであれば解決に向かうでしょう。が、それでも対応できない次元の深い、深い心の問題の場合があります。その場合はやはりこの世界は「わからないもの」と認めることから解決を求めるのが必要なのではないかと思います。この世界にはわからないことがあるのは当たり前であるという認識を持つことです。わからないのだから、そのわからなさに身をゆだねてしまう、ということです。身をゆだねるという主体性が求められますが、その覚悟があるとふっと力が抜ける。すると、今までのなやみがアホみたいに見える。なんとかなる。なるようになる。だからもう考え過ぎるのはやめましょう。

その覚悟は、お団子アイスでも食べるとできるかもしれません。

 

松本 利勝

カレーは復活の味

f:id:careersg:20170901140640j:plain 街の空を見上げると月。何故かカレー日和

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小学生低学年の頃、昭和30年代。母がカレーを作り始めました。小麦粉とカレー粉に玉ねぎと鶏肉を入れただけのまずいカレーでした。それが瞬く間に市販のカレーのルーが売り出され、今やカレーは国民食に。かくいうわたしもスパイスを駆使したインドカレーを作るまでに凝りだしています。思えば、苦しい時、わたしはいつもカレーを食べておりました。激辛ではありませんが、なぜかカレーを食べるとほんの少し、元気がでるような気がするのです。

この夏、今週です。わたしは空いている時間を生かせないかと、学習障害の生徒たちの個別指導員の求人に応募してみました。月曜に面接と模擬試験がありました。一週間以内に返信メールが届くとのことでした。しかし、未だ返信はありません。世の中は甘くはありません。まぁ、こんなこともある、あきらめないで次の可能性を探そう。と思いつつも、少し元気がなくなっている自分がおります。めげてはいけない。気を取り直して次の方策を考えなければと思いつつも、です。弱いですね。

ところで、みなさんは、元気がなくなったとき、どのようにして元気を回復しているのでしょうか。そもそも人が元気がなくなるとき、どのようにして元気を回復するか。心理学や精神医学でいうところのレジリエンス(resilience回復力)の話にもなりますね。

わたしは、今回のように元気がなくなるときは、部屋にこもり、「やっぱり歳かな、62歳で元校長なんて使いづらいよなぁ、どこかにプライドが出るのかな、見るからにぱっとしないのかな」などと落ち込み、無気力状態になるのが常であります。こんな時は、理屈ではないので、もうどうしようもありません。ただ、単純なので、ご飯を受け付けない程の落ち込みにはめったにならないので、その時は何とか外に出て、例えばインドカレー屋さんを探して、食するのです。汗が噴き出して、顔がぐしゃぐしゃになり、身体をすっきりさせてみると、元気が出ることもあるのです。

食べることはいわば、外からの命の摂取。命を吹き入れると、身体が変容し、何かが変わる。変わることに乗じて、一歩前に進めるような気がするのです。

レジリエンスの方法は自分で見つけるしかありませんが、誰かに助けてもらうことに億劫にならないようにするのもいい方法のようです。

美味しいカレー屋さん、お薦めのところありますか?

 

元校長 松本 利勝