半沢直樹の世界から自己理解へ

大人気ドラマ「半沢直樹」が終わりました。初回から目が離せず、楽しく見ることが出きました。メディアでは、出演された俳優さんたちがそのメイキングストーリーを紹介するなどして盛り上がっています。俳優さんたちが、生き生きとその役柄を演じていらっしゃる様子が伝わり、実に爽快でした。

ところでこのドラマ・・・・私たちは、ドラマのだれに己を重ねてワクワクドキドキスカッとしていたのでしょうか。主人公の半沢? その妻?大和田常務? 美人秘書? 金融庁役員? 中小企業の社員?いかにも悪者の幹事長? 悪徳弁護士。。女性大臣? ・・・

 

私の場合は、もし自分を重ねるなら、いや、最も興味深い登場人物としてその名をあげるなら、悪徳弁護士や銀行の派閥に翻弄され、またワイロを受け取る信念のかけらもない役員たちでしょうか。更に顔芸、恫喝の上手な幹事長も捨てがたい魅力でした。

 

現実社会では、私たちは、実は、ある人々から見れば許しがたい悪者であるとは自覚しておらず、ほとんどがご自身は善人であると思い込んでいます。会社役員や政治家のみならず、高名な宗教者などにも己こそ、真摯な善人であると。滑稽なのはそれらの人々は、その多くが謙遜を装い、人に教訓を垂れる機会を与えられていること。

 

私たちが己の滑稽さに気づくのはいつのことでしょうか。自己理解を深めるとは、実に厄介な行為です。誰しも、まず自己理解、ありのままの自己受容というのですが。。。

 

松本 利勝

国家資格キャリア・コンサルタント

産業カウンセラー・教育カウンセラー

元中学・高等学校校長

人はどんな満足を求めて働くのか

 

 お腹がすくと、食欲を満たそうとし、生存を脅かす対象は、排除する。そしてどこかの組織に属すること、そしてそこで、認めてもらいたいとおもうようになり、自分らしい在り方、自己実現を求める。これは、あの有名なマズロー先生の説でした。人間の高位の欲求が自己実現ではなく、その先の自己超越という宗教的次元にまで達するという議論はさておき、アルダーファー先生は、その後、人間の欲求は、必ずしも、そのような段階を踏むものではないと考えました。実は、人は下位の欲求が満たされなくても、上位の欲求が生じることもあるというのです。いわゆるERG理論です。この説が正しいのかどうかはともかく、どうやら私たちが働くということと、どのような満足を求めて働くのか、は深い関係があるようです。

 

 さて、あらためて問いましょう。私たちは、何のために働くのでしょう。どんな欲求を満たすために? 人の心は複雑です。そう単純ではありません。名誉ために自死することもいとわない人も存在するでしょう。人を愛するがゆえに働き、愛するが故に非人間的労働もいとわぬこともあり得ます。人の満足の内容は、心の複雑さに比例するように思います。

 

 今年は、あるところでカウンセリングの仕事をさせていただいています。様々なお話を聞かせていただいています。そして思うのは、人の心の深い深い神秘、愛の形の諸相。自分の精神性も、決して分析などできませんが、少なくても、わたしたちの持つ、知識の限界、体験的学びの限界だけは、認識していなければならない、と。その事実の前には、真摯な姿勢が求められていると思うようになりました。カウンセラーならずとも。その方がどのような満足を求めてここにいらしているのか、いつも考えさせられます。

 

 心に重荷を負う人と共に歩む、とはよく聞く言葉です。が、その言葉の意味は、実に深く重いものです。軽々しく言えるものでありません。その人と共に、野獣のひそむ闇の森の中を共に手を携え、出口に見えるであろう一筋の光を求めて、手に持つ灯で足元を照らしながら、進むべき道を探し求める旅路。その時に私たちを導く灯とは何か、問いかけは消えません。

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松本 利勝

 

元中学・高等学校校長

国家資格キャリアコンサルタント  

教育カウンセラー

産業カウンセラー  防災士

65歳からの防災

人生で、はじめて資格を取得したのは、何だったろうか。大学で教員免許。そしてレクリェーション指導者養成課程修了。学校で34年間の教員生活。その間に初任者研修修了。校長職後は、産業カウンセラーとキャリアコンサルタントの資格。65歳になった今、キャリア・ストラテジーが港区の指定防災アドバイザーとなったことから防災士にチャレンジ。結果は、近日に。結果はともかく、勉強していると、この世界で生き抜くために必要な知恵を学びました。台風、土砂災害、地震津波、等の自然災害、災害基本対策法等の法律、防災計画、BCPトリアージなどいろいろ。これまで知らずにいたことを恥じるばかりですが、知れば忍者の知恵に通じることもあると知りました。山崩れの音、異臭を事前に察知して、自分の命を守る(自助)は忍術の基本です。忍び足も災害時には役に立つ場面もあります。忍術は港区の防災ワークショップにも生かせるでしょう。65歳の防災忍者の誕生も間近かもしれません。

資格は、現場で実力をつけ、スキルを身に付けなければ意味はありません。これから、港区の皆様と一緒に、現場で学んでまいります。

人は、何時からでも、学べます。

 

松本 利勝

元中学校・高校校長

国家資格キャリアコンサルタント

産業カウンセラー・教育カウンセラー

 

 

 

 そのあたりの草の声

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そのあたりの草

 

朝の散歩。野の草に耳を傾けるときっとこんなことを言っているに違いありません。

ただし、人間には意味不明。ですが、意味不明であることに意味があるのかも・・・

 

あなたは、そのもでもごらんぞ。だから、びまふぼぉ。ねぶろーば、ざの2。

つぉやばんぬ。ぐととと。そう、きみのこどもたかひかり。では、んだね。んだんだ。めんごいんだね、ぞうやらね。

 ぞりま゛み゛。ば「ぎらんど」ノらになぃの手に田地海苔も。ぞらなないがたのにじもまぎぐになの。ご゛のていにしゆやえ゛のまはせのともになのまきにな゛゛れり。ぢのな゜いのにひみりはにのまい゛゛いりてのい゛゛゛゛らのりはのまきくちだていものもなすいね。

 そう。しえばがんごぎばりでる。

 

松本 利勝

そのあたりの人間

忍者のおそるべき集中力はどこから生まれるか

f:id:careersg:20200725151952j:plain 忍者の師匠「習志野」氏の手裏剣

忍者が手裏剣を確実に敵に命中させる極意は、集中しないことかもしれません。そう感じたのは、先日のたまに行う、手裏剣修行の時でした。場所は東京のときわ台駅近くのとある修行場。今回の師匠は、佐助さん。手裏剣投げにおいて日本一を誇る若き達人です。棒手裏剣のいくつかの打法を教わりました。手裏剣は戦国時代、いやそれ以前から伝承されていた忍術の武器の一つ。佐助さんは、幼き頃から、その師匠からその技を継承しています。佐助さんはNHKはじめマスコミ出演もされていますから、ご存じの方もいらっしゃるでしょう。佐助さんの身体能力は、手裏剣だけではなく体操選手のようなバク転、目にもとまらぬ回転飛び蹴り、剣術すべてにおいて高レベルであると見受けられます。
 さて、手裏剣の技の極意、それは何でしょうか。手首のスナップを使わず、手裏剣の背をなでるように押し出すこと。・・・言葉では意味不明ですね。わたしも何度も試してみますが、そう簡単にはうまくできません。後ろに飛んで行ったり、床に刺さったりです。

手裏剣、両手打ちの修行を始めたときの佐助さんの助言。「利き手ではなく、もう一つの手に聴くこと」利き手には意識が行き過ぎて、余計な力が入る。大切なことは、脱力して自然体で打つこと。利き手でない手は、普段意識しない自然な脱力が出来ていると。集中とは、実は、意識しない当たり前の状態に身をゆだねることなのだと実感いたしました。
人生の決断も、意識過剰になると的をはずします。キャリア形成も、悩みも自然体の脱力、利き手でない手に身と心をゆだねるのが理にかなっているのかもしれません。

松本 利勝

 

国家資格キャリアコンサルタント

産業カウンセラー、教育カウンセラー

元中学・高等学校校長

 

 

 

仕事をしない人間だった時

人との間と書いて「人間」。確かに私たちは人間関係がなければ、生物的に生きていても人としては生きていないのです。それは昔からよく聞いてきたことです。しかし還暦を超えて、強く実感するようになりました。
 教員生活を終えて、還暦になり、一旦青梅の森の近くの自宅にこもりました。かつての知人との旧交を温めつつも、それは愉しくも、どこか虚しい隠居生活のようなものでした。
 不条理な苦しい仕事に追われ、行きつく暇もない日々の職務に埋没するのも悲劇ですが、さりとて、一旦仕事を辞めてしまえば、それもまた行き場のない煩悶の日々が続くのです。好きな読書も、旅も、山歩きも、その空虚感は満たされません。もちろん、それは健康があればこそで、生かされているその事実には感謝ではあります。
 わが身の勝手さに呆れもしますが、健康がある限りにおいて、社会と繋がることなくして生きている実感を得ることは至難の業です。人と係ることは面倒ですが、人と関わらずして、生きている歓びもないのも事実。生きるということは、なかなか面倒です。
 人生は世代によって、それぞれの発達課題があります。子どもには子どもの役割、青年期にも、中高年期、老年期にも。人は、その生命を閉じるまで、成長することが可能だとされています。自分の発達課題は何か、さらに成長するためにはそのことを確認しなければなりません。
 たとえ老人と呼ばれても、悟りを開いた孤高の仙人のような生活は、凡人のわたしにはできません。ささやかでも、身の丈に合った世俗の世界で人との出会い、係りを愉しみたいと思うのです。願わくば、人様のお役に立てるようなことがあれば、それは幸いなことです。

 

松本 利勝

国家資格キャリアコンサルタント

産業カウンセラー、教育カウンセラー

元中高校長

教育では平和をつくれない

  かつて、中高で平和教育なるものをしていました。平和を作りだすとは、どのような意味か。その実践とは何を意味することなのか、ただ事実を知ることを通して探求し続ける教育です。答えはありません。生徒たちが学ぶのは、調べ方、考え方。試験は、レポートでした。そしてほぼ全員が最高のA評価。つまらないのは愛が世界を救うとか、正義の味方とか、話せばわかり合えるなどという言葉が軽薄に語られるとき。世に流布する表層的道徳。吐き気がするほど。ちゃんちゃらおかしくて。

 沖縄も広島・長崎の原爆に関するわたしたちの問題も、軽薄なヒューマニズムでは決して解決しません。

ただ、問い続ける営みと魂の叫びを武器として無心にどこかの人々に響かせるだけです。

 国際紛争の現場に身を置き、世界で最も貧しい国、シエラレオネに学校を作ったA氏の言葉「教育では平和はつくれない。わたしの作った学校の生徒が、やがて少年兵となり沢山の人々を虐殺したのだから」

 教師であり続けるのは、そう簡単なことではありません。

 

 

松本 利勝

国家資格キャリアコンサルタント

産業カウンセラー、教育カウンセラー