心の痛み

木枯らし吹くここ青梅の小高い丘から夕暮れ晩秋の紅葉をみています。遠くに冠雪の富士。眼科に街が見え、市井の人々の暮らしを感じています。

その何気ない日常の生活には、人知れず心に秘めた痛みがあるに違いありません。人の心は、実に複雑繊細で、僅かに文学的に辛うじて表現し得るもののように思います。人が心が傷つき、癒しがたい痛みを刻印されてしまったとき、そのとき、どのように癒しが与えらるのでしょう。

どんな職場、コミュニティでも人は傷つき、傷つけてしまう可能性はあります。あらゆる世代の悩みの第1位は人間関係ですが、人との関わり無くして生きることが出来ない以上、如何にして持続的共生を可能にする人間関係を作るかが、大きな課題になります。

愛する人を失い喪失感に苦しむ人、誰かから心を深く傷つけられたと感じ、あるいは傷つけてしまったと悩み、行き場のない苦しみの内にある人など、それらの人々にとって癒しはどのように与えられるでしょう。

わたしの父は、不慮の交通事故て亡くなりました。加害者がいて、わたしたち家族には憎しみと許さなければならないという義務感とが交錯する中で、しばらく茫然としていました。感情が抑え難く現れ、向き合うのは自分の心の醜さ、弱さ、卑怯さでした。誰にも言えず、何事も無かったように教師の日常を過ごすのですが、心の痛みは、あるとき、ふと心を覆います。哲学や心理学の単なる知識などでは整理がつくものではありません。

人の痛みを癒すのは人の痛みを知り、向き合っている人かも知れません。我が身に問いつつ、星野富弘さんの詩のこんな言葉を思い出します。

喜びが集まったよりも、悲しみが集まった方が、幸せに近いような気がする。強いものが集まったよりも、弱いものが集まった方が真実に近い気がする。

企業でも、家庭でも、学校でも、わたしたちは、ときに傷つき、ときに傷つける体験をしてしまうこともあるでしょう。しかし、だからこそ生きる道が見えるのでしょう。

人の癒しは、深い痛みの受容から生まれる、そんな気がします。

松本利勝

国家資格キャリアコンサルタント

産業カウンセラー

元校長