お盆。家族の記憶

実家には父も母もいません。そこにある古いアルバムの家族の写真も、今はわたしと姉二人のほか、見る者もいないのです。わたしの産湯の写真、母の若かりしときの写真、父の軍服写真。わたしが幼児だった頃に小さな家の玄関の前で撮った家族6人の写真。やがて、今や還暦を超えたわたしたち子どもがこの世界から旅立ったとき、このアルバムの写真はどんな意味をもつのでしょう。一体誰がこの写真を見るのでしょうか。いつか、親戚の誰かがわたしの写真を見ながらその家族に「この人はお前たちの遠い親戚だった人たちだよ、確か学校の校長だったように思うけれどもくわしいことは知らない。ひょっとしたら仙台のどこかの学校の校長室に歴代の校長写真の一人として飾ってあるかもしれないね」

などと語るのでしょうか。

人は、その人生の終焉に己の存在意味をどのように確認するのでしょうか。自分はなぜ生まれたのか。その問いにどのように答えるのでしょうか。

しかし、ある賢人の不思議なことばが脳裏に浮かびます。

「人生をどう生きるかではない。人生がお前という人間をどう生きるか、それが問いの立て方だ」自分が主でなくてもすでに与えられているかけがえのない人生が自分という人間をどう輝かしていくのか、それが正しい

問いだというのです。

いつの日かどこかにわたしの古い家族のアルバムの写真が捨て去られようとも、わたしに人生を与える大いなる力ーそれはこの宇宙の神秘ともいえる次元かもしれないーはその記憶の襞にわたしという存在が刻印されるのではないかと思うのです。それこそが、わたしの存在の希望であり、生きたあかしになる。まさしく、この時代に精一杯生きたあかしとして。

お盆の時期、ふと思い出してしまいました。亡き父と母のぬくもり。

 

 

国家資格キャリアコンサルタント

産業カウンセラー