シュワキマセリ

シュワキマセリ。それは不思議な響きのことばでした。小学4年生のときに、優等生の男の子が洒落た半ズボンをはいて、講堂でみんなの前で披露したのがその歌。大人になり、神学を学んでからそれが「主は来ませり」ということばであることを知りました。しかし、その意味は難解。主とは誰のことか。日本の神仏との違いは何か。神概念は人が作り出した社会安定装置に過ぎないのではないか。キリスト(救い主)とはどのような人物か。救い主が貧しき大工夫婦の子として生まれた物語の意味は何か。神が人として生まれ、無残な死刑囚として処せられ、かつ復活するこの物語の意味は何か。その男が今も「主」として信じられている不思議。あれから40年以上の年月。「シュワキマセリ」の響きは依然神秘のままなのです。

 

昨日、子供向けの番組で有名な児童文学のお話が紹介されていました。オスカー・ワイルド「燕と王子(幸福な王子)」。

 

町の中心にたてられた豪華な王子像と燕の物語。ある日、燕が飛んできて、一休み。すると水が降ってきました。それは王子の涙。王子は語るのです。生きている間は涙など流したことなかった。でも、像になり高いところにいると町の悲しいことを知るようになった。だから王子はそれらの人々に己を飾る金銀財宝のすべてを燕の手助けで届けたい、と。やがてサファイヤの瞳すら与えてしまう王子。さらに身体を覆う金箔すらも。いまや見るもみすぼらしい像。誰も見上げる者はいない。石をなげつけられるだけ。極寒の冬になっても燕は王子のもとを去らず、小さな命を失う。二つの魂は天使によって天国に運ばれる。

 

この物語はセンチメンタルな次元のものではないでしょう。

番組制作者がなぜ、クリスマスのこの時期に、この物語を子どもたちに届けたかったのか、その意図を知る由はありません。

 

「シュハキマセリ、シュワキマセリ」今も不思議な響きです。

 

 

 

 松本利勝

国家資格キャリアコンサルタント

産業カウンセラー

教育カウンセラー

元中学・高等学校校長