キャリアとは、周知のごとく、単なる職歴だけではなく、生き方、人生の道程そのものを表す言葉です。従って資格があろうとなかろうと、キャリア・コンサルタント、カウンセラーという職業でなくても実は、誰でもがキャリアを持っていることになります。問題は、どのようにキャリアを形成していくかです。つまり、どのように生きていくか。
しかし、人生には耐えがたき苦しみも喜びもあります。私たちは、勝手な存在ですから苦しみの時にのみ、人生の意味、その不条理の意味を考えることになります。どうして、自分はこのような苦しみに合うのだろう。どうして、生きることが空しいのに、生きなければならないのだろう、そもそも自分が存在する意味などあるのだろうか、と。
そして、ある人々は、自らの命を絶つことになることもあるのです。
こんな物語があります。
ある男は、子供のころ両親が離婚しどちらからも愛されず、いつしか部屋に引きこもり、ただひたすらゲームの世界に逃避していました。気が付けばすでに中年。彼はいつもつぶやく。「自分はどうして生まれたのか。なぜ生きなければならないのか。自分の存在の意味が分からない。・・・・」その人間のあまりにも根源的な、問いかけが頭から離れません。
安易に「愛」が救いだ、という言葉には心が動きません。その言葉の意味を体感できるキャリアを彼は持っていなかったのです。答えを求めて哲学書を読み漁り、宗教施設にも足を向けたこともありましたが、彼の心を満たすものはそこには見出せませんでした。そして、再び、自室だけが彼の世界になりました。
物語はここで終わりです。未完の物語です。私たちは彼の姿をみてどのように感じるでしょうか。彼には救いがない。家族愛がないから、しょうがない。かわいそうだ。。誰かが彼を気にかけてその闇から救ってあげないといけない・・・などと考えるでしょうか。
難しい問題です。
ただ、たった一つ真実なことがあると思います。それは、実は「人生の意味は分からない」ということです。私たちの人生はいつ閉じるかわかりません。いつか強制終了になります。その時も状況もわたしちには選択肢はありません。まったく一方的にその瞬間は設定され逃げることはできません。
その事実の前に、わたしたちが絶望して向かうのか、あるいはだからこそ「今」生きているこの世界を味わい尽くし心残りがないように生ききる。それしかないのではないかと思うのです。人生の意味を問う意味はありますが、その意味を死ぬまで問い続けて悶々とした人生には意味がないのです。
今朝も紫陽花の美しさに心奪われ、お茶漬けのおいしさに
笑みがこぼれます。
#キャリア #生きる意味