代々木駅ホームで声をかけてきたのは・・・

先日、高輪の事務所から市ヶ谷の某機関のカウンセリングルームに。市ヶ谷までは代々木駅で総武線に乗り換えます。目指すホームに階段を上がると、目の前に電車。発車のアナウンスが聞こえ、「ん、無理かな」と思いつつ、少し小走りに。が、このままでは「挟まれる」と判断、踏みとどまりました。「次の電車でもいい。もう若くはないし、無理はいけない」と思い、近くのベンチに。するとどこからか「わたしもあきらめましたのよ」と。見ると隣に座っている妙齢のご婦人。凛とした上品な。ご自身がおっしゃるには80歳だとか。四谷の歯医者に通っているのだとか。突然の声掛けにほんの少し、驚きましたが、四谷までお話を伺いました。ご主人を亡くされて6年目になる。一人暮らしだけれども友人たちが訪ねてくれるので寂しくはないと。ただただ、聴かせていだたきました。四谷駅までのひと時の静かな会話。ご縁がありましたらまたお話いたしましょうと、ご婦人。おしゃれな靴、スタイリッシュなパンツ。キラキラ輝く笑顔。80歳とは思えぬ輝き。きっと、これまでも味わい深い素敵な人生を送ってこられたのでしょう。

見知らぬご婦人に初めて声をかけられましたが、一期一会。人間は面白いものだと

感じさせられた貴重な時間でした。

森川すいめい、というカウンセリング

 森川すいめい。その名を最近まで知りませんでした。1973年生まれの精神科医の先生です。たまたまNHKの「心の時代」の取材に応じていました。彼は20年以上、路上生活者支援に取り組んでいます。心打たれたのは、その支援活動の背後にある彼自身の壮絶な家族との葛藤。父親から母親と自分へのDV。母親からの拒絶体験。「うつ」の発症。決して順調に医師の道を歩んでこられたわけではありません。苦悩して葛藤して、絶望して、その果てにようやくみつけた自分の弱さ。それを受容し、それを強みとする「生き方の軸」の獲得。映像という媒介を通してでも、その壮絶なこれまでの道程が伝わってきました。

 

人は自分の弱さを認めたくもないし、隠していきたいものです。しかし、ある時、それは人生を支えるにはあまりにも薄っぺらであることを自覚します。人は自分自身に噓をついては生きていけないのです。もちろん、誰にも言えない嘘はありますし、それを告白することで誰かを傷つけるのであれば、それは口外することはしない方が良いでしょう。ただ、それを自分自身が直視し認め、そのありのままの自分の醜悪さ、時には正当化したい欲望という弱さをも肯定し受容することが必要です。誰かに告白して許しを得なければなりません。

そのことを森川さんは「I forgive me」と表現しました。彼はそれを旅で出会った人々から学んだと。人が一歩、前に進もうとするとき、そこに「ゆるされている、ゆるしている自分がいる」という強い思いが必要なのでしょう。

 

森川さんは、わたしよりもずいぶん若いのですが、人に向き合う力、その命の痛みを知る深さには学ぶことしきりです。

 

人生の意味を問う人生に意味はない

キャリアとは、周知のごとく、単なる職歴だけではなく、生き方、人生の道程そのものを表す言葉です。従って資格があろうとなかろうと、キャリア・コンサルタント、カウンセラーという職業でなくても実は、誰でもがキャリアを持っていることになります。問題は、どのようにキャリアを形成していくかです。つまり、どのように生きていくか。

 

しかし、人生には耐えがたき苦しみも喜びもあります。私たちは、勝手な存在ですから苦しみの時にのみ、人生の意味、その不条理の意味を考えることになります。どうして、自分はこのような苦しみに合うのだろう。どうして、生きることが空しいのに、生きなければならないのだろう、そもそも自分が存在する意味などあるのだろうか、と。

 

そして、ある人々は、自らの命を絶つことになることもあるのです。

 

こんな物語があります。

ある男は、子供のころ両親が離婚しどちらからも愛されず、いつしか部屋に引きこもり、ただひたすらゲームの世界に逃避していました。気が付けばすでに中年。彼はいつもつぶやく。「自分はどうして生まれたのか。なぜ生きなければならないのか。自分の存在の意味が分からない。・・・・」その人間のあまりにも根源的な、問いかけが頭から離れません。

安易に「愛」が救いだ、という言葉には心が動きません。その言葉の意味を体感できるキャリアを彼は持っていなかったのです。答えを求めて哲学書を読み漁り、宗教施設にも足を向けたこともありましたが、彼の心を満たすものはそこには見出せませんでした。そして、再び、自室だけが彼の世界になりました。

 

物語はここで終わりです。未完の物語です。私たちは彼の姿をみてどのように感じるでしょうか。彼には救いがない。家族愛がないから、しょうがない。かわいそうだ。。誰かが彼を気にかけてその闇から救ってあげないといけない・・・などと考えるでしょうか。

難しい問題です。

 

ただ、たった一つ真実なことがあると思います。それは、実は「人生の意味は分からない」ということです。私たちの人生はいつ閉じるかわかりません。いつか強制終了になります。その時も状況もわたしちには選択肢はありません。まったく一方的にその瞬間は設定され逃げることはできません。

 

その事実の前に、わたしたちが絶望して向かうのか、あるいはだからこそ「今」生きているこの世界を味わい尽くし心残りがないように生ききる。それしかないのではないかと思うのです。人生の意味を問う意味はありますが、その意味を死ぬまで問い続けて悶々とした人生には意味がないのです。

 

今朝も紫陽花の美しさに心奪われ、お茶漬けのおいしさに

笑みがこぼれます。

 

#キャリア #生きる意味

命のキャリア

わたしたちがご飯を食べるとき、「いただきます」といいます。子供のころに、親から教えられてきた習慣です。そして大人になって、あらためてその理由を調べると、どうやら多くの日本人は、動植物の命を奪って、その「いのちをいただく」のだから、「感謝のしるし」としてその言葉があるのだと考えているようなのです。その理屈にわたしは不思議と納得してしまうのですが、実はこれは日本人独特の感覚らしいのです。

昔、手塚治虫氏の漫画「ブッダ」で、人間を救うために自らを焚火の中に投じてしまううさぎの話がありました。人間を生かすために身をささげたこのうさぎの中に仏の慈悲を見る、といったお話でしたが、このような思想は、欧米人には理解しがたいようなのです。

欧米人にとっては動物にとって大切なことは、そのいのちを奪うかどうかではなく、いかに「痛み」を減じていくか、だというのです。

わたしの中には、日本的感覚がありますから、お命いただく感謝の心もありますし、その霊を鎮める感覚もわかります。あらゆる命あるものと、人間のいのちも霊があり、その意味では同等であるという感覚です。アニミズムに通じる感覚かもしれません。しかし、これは文化史的にみれば、日本という特殊な感覚であることは、異文化共生を真剣に考えるならば留意すべきことです。

 

カウンセラーの理論の原点は、いうまでもなくかのロジャーズ先生の「来談者中心」の思想ですが、これは人間の尊厳を前提にしているものです。しかし、その尊厳が何に根拠を持つのかについては日本では議論されることがありません。その理論の「自己一致、受容、共感」は実は、欧米人とは異なっているであろうことは、頭の片隅に入れておきたいものです。

 

カウンセリング現場での対応も、この日本という思想的土壌を踏まえたものでなければ、時に対応に誤りが生じることになるかもしれません。

 

松本 利勝

元中高校長 教育カウンセラー

国家資格キャリアコンサルタント

産業カウンセラー

 

 

 

カウンセリングとコンサルティング

某大学、某政府機関のカウンセリングを担当させてもらう中での実感。それは、実際の現場ではクライアントに向き合って対応する際には、心理学的アプローチだけでなく、キャリアコンサルティングのそれもスキルとして持っているなら、さらに意味ある関わりが出来るのではないか、ということです。

相談にいらっしゃる方には、それなりの深い事情がおありになります。その方と道を探る道程には、現実社会での具体的な情報提供も必要になりますから、相談を受ける側としては、やはりカウンセリングとコンサルティングのスキルは、不可欠だと思っています。

ただ、あらゆる領域に通じたスキルは不可能です。その場合は、リファー、つまり信頼出来る方にお願いすることが必要でしょうか。普段からの人材ネットワークの構築力が問われるところです。

最後に、もうひとつ。コーチングとカウンセリング、コンサルティングの違い。たまに、自分はコーチングが出来るのでカウンセリングやコンサルティングも大丈夫だ、と語る方がいらっしゃいますので。私の理解では、キャリアコンサルティングの中にカウンセリングもコーチングも含まれていると考えています。相談者の状況により、システィマティックな観点からアプローチしているからです。基本的には、コーチングも違いは無いと思いますが、人により、定義が異なるようですので、議論する場合には、それは留意すべき点かと思います。

先生になれない先生たち

世の中には、「センセイ」と呼ばれる人たちがいます。学校教師、政治家、弁護士、華道家、調理師、カウンセラー、など。その言葉は、ときに揶揄され、嫌な思いをすることもありました。

私は初めて神戸で新米教師として教壇に立ったとき、「センセイ」と呼ばれ、この未熟な自分が「先生」と呼ばれることに身の引き締まる思いをいたしました。内心、教員免許を持っているというだけで人を育て導く「先生」の資格はこの自分にはあるのか、と思いました。しかし、誰にも始めの一歩がある、と肝に命じて、数十年。気がつけば校長になっていました。いろいろな経験、正しいと思う挑戦、また失敗も沢山してきました。

さて自分はセンセイから「先生」になれたでしょうか。

その評価は、神のみぞ知るところです。

「資格」取得というものは、単なるきっかけに過ぎません。国家資格キャリア・コンサルタント、キャリアコンサルティング1級・2級技能士も同じです。受験勉強をそつなくこなし、試験に合格すれば、その資格は取得することが出来ます。しかし、その人は、実はその技能資格が実際の現場でも指導者レベルに値して欲しい、そう期待されている、ということに過ぎません。

現場を知らず、資格だけ取得しただけでは、全くその役割は果たせません。大切なことは、資格を取得してから、いかに現場で真摯に経験を重ね、自己研鑽を積むか、です。

歳を重ね、それなりに実績のある人々こそ真摯な学びが難しい傾向があるように思われます。秋に身を垂れる稲穂のように真摯に生きたいものです。「先生」になれるように。

国家資格キャリア・コンサルタント

産業カウンセラー

元中学・高等学校校長

防災士

ピラミッドの謎

古代エジプト文明の象徴、それはピラミッド。絶大な王の権力の証であると同時に、古代人の死への恐怖のそれでもある。我々人間が他の生物と異なるのは、いずれ死すべき有限な存在であることを知っていることである。だからこそ、権力者は、自らを神として崇めさせ、あるいは思い込み、永遠の生命、不死を得ようとした。

我々凡人は、権力も地位も経済力もない。ただ、せめて今という一瞬を大切に生きようと、多分無意識にそうしている。それはきっと正しいことでもある。

しかし、ふと身近な人、好きな芸能人が亡くなったりすると〔最近なら田中邦衛さん。「北の国から」の朴訥不器用で温かく五郎を演じる田中さんが大好きだった)我が身もいずれ死の世界に逝くべき儚い存在であることを思い出す。死への恐怖。まさにこの恐れの克服こそ、人生の最大のテーマである。

かつて神学の研究に没頭したのも、そのような思考傾向があったからである。

ある日、気づいた。死を恐れている自分を認めよ。どこかで自分だけは死にたくない、などという浅はかな自分がいても良いではないか。そのように、カッコ悪く無様に醜悪な病んだ身体を晒して死んでいくのも自然なことだ。

永遠の生命とは、実はそのように生きる、その在り方そのものであるだろう。

キャリアの最終段階は、きっとここに辿り着くような気がする。f:id:careersg:20210405002516j:plain