わたしは教室に入れない先生だった

 わたしは、ずいぶん長い間・・・34年間も教員生活をしてきました。振り返れば、実にいろいろな生徒たち、いろいろな先生たちとの出会いがありました。

 はじめの赴任先は関西のある荒れた男子高校でした。当時、わたしは校内暴力、万引き、そして喫煙など心のすさんだ荒れた生徒たちと向き合うことに必死でした。ある教室では膝まである学生服を身にまとった生徒に度肝を抜かれました。上着からチラチラ見える赤いTシャツ、アフロヘアーやスキンヘッドの生徒たちがクラスを仕切っていました。わたしは教室に行くことが怖くなりました。それでもはじめはテレビの金八先生気取りで、薄っぺらな正義感をかざして、説教していました。が、生徒たちはすぐにそれが本物かどうか見抜きます。わたしの言葉など、まったく偽善的で生徒のこころには届きませんでした。授業はますます荒れて、おしゃべり、一部の生徒の立ち歩き・・・。わたしの注意などまったくの無視。ベテランの先生に相談しても、「はじめは誰でもそうだから、がんばりなさい」というアドバイス。教頭先生も励ましてはくれますが、わたしは実際、どうして良いか全くわからず、教師として失格ではないかとただ自己嫌悪に陥るばかり。毎日、眠れず、やがて学校に行くのが辛くなりました。また、あの生徒から「くそったれ!先生はドアホや!」という罵声を浴びせかけられるのか、と生徒が怖くなり、生徒が怖い、などと思ってしまう自分に教員としての自信も喪失し、さりとて教師を辞めて生活できる自信もない。八方ふさがりの苦悩の日々。

 そんなダメ教師であったわたしを変えたのは、わたしにその罵声を浴びせた生徒の家庭訪問でした。あまり気のりがしませんでした。「あんな生徒の家庭だからわけのわからん親が出てくるにちがいない。」電車に乗り1時間ほど。ある街の古いアパートの一室がその生徒の家でした。ノックをすると穏やかな仏様のようなお顔のおばあ様が迎えてくださいました。彼はのっぴきならぬ事情があり祖母と二人暮らしを余儀なくされていたのでした。彼の祖母は孫を心から愛していました。彼も祖母を支えていました。その時、わたしは、その生徒の悲しみ、優しさにまったく思いを馳せることをしていなかった自分を恥じました。言葉だけの正しさを振りかざす、最低の教師でありました。教室に行くのが怖いのでなく、実はそんなだめな自分と向き合うのが怖かっただけなのだと、はじめて気付かされました。若き日のわたしの姿です。

 先生と呼ばれて、人知れず苦悩する先生たち。難しいクラス経営、先生たちとの関係、保護者対応、管理職との相克、ご自身の家族との問題等々で疲弊枯渇する先生たち。そんな先生たちにわたしは心からのエールを送りたいと思います。立派な良い先生である必要はありません。誰からも好かれる先生でなくても大丈夫です。大切なこと、それは先生であるわたしたちが、まず自分の人生を自分らしく歩むこと。わたしたちには、そんな人生を導いてくれる「生徒」という「先生」がいます。もちろん、人生の選択肢には先生という職業以外の道も用意されていることもあります。また自分の世界を切り開くとき、誰かの助けをもらうのも決して恥ずかしいことではありません。こころのリセット。いつでもできます。

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(スナフキンのように自由に生きたいものです。これはわたしの自宅の玄関に飾っている絵葉書)

 

株式会社キャリアストラテジー

 講師 松本 利勝 (元校長  国家資格キャリアコンサルタント 産業カウンセラー)