人はなぜ努力するのだろう

 しばらく、考えていました。人はなぜ、努力するのだろう、と。(きょうは観念的なお話しでつまらないかもしれませんね。)時に平昌オリンピックを見ながら。選手たちは、おそらく想像を絶する努力をしてオリンピック選手に選出され、なおかつ、そこで活躍するなど、もはや超人としか思えません。オリンピックに限らず、人は何事かを成し遂げようと努力します。必ずしも世に認められなくても、です。

 わたしも、努力したことがないわけではありません。中学1年生、野球部時代、わたしは捕手でしたが、どうしても二塁まで球が届かず、悔しい思いをしていました。毎日、帰宅して、家の前の堤防から川に石投げをして鍛えました。そして二年生の夏、ついに、二塁まで球が届いたのです。監督が褒めてくださったその瞬間、言いようのない達成感に満たされたことを思い出します。

 大人になり、還暦を越えた今、あらためて人はなぜ努力するのか、ひとつの結論に至りました。笑われるような考えかも知れませんが。それは、自己と宇宙が一つになるためではないかと。この宇宙の構成物質の未だ解明されぬ何らかの法則があるならば、自己の存在の究極の姿から発せられるエネルギーが宇宙の根源的な法則と一致したときに、人は、時空を超えた命の本質を感得する、そう考えることはできないでしようか。人は無意識、無自覚にその神秘の感覚を求めているのではないかと思うのです。少年のわたしが二塁まで球をノーバウンドで投げきった、あの感覚は、まさにそのようなものでした。

  このような論理は、もちろん昔からプラトンや仏教の哲学や宗教の世界で論じられてきたことですが、それらはこの世界の真理を何とか、言葉で説明しようとした軌跡のように思えるのです。

 今夜、オリンピックは終わりましたが、人が努力する意味をあらためて考えさせられました。人の命は、いつか塵に帰るものですが、決して虚無の中に消失してしまうわけではないのでしょう。それは努力と言う魔法の力によって、証明できるもの、そのように思えます。この問いは、実は神学生時代から探求してきた問題でした。

 オリンピック、素敵でした。

 

松本 利勝

国家資格キャリアコンサルタント

産業カウンセラー

元校長