穏やかな日常

5秒に1人。つまり1日25000人。5歳未満の幼子が1年にそれを失う数は35万人から500万人。世界で何らかの理由で餓死する数字である。(国連WFP統計)
 「一人の死は悲劇だが、百万人の死は統計だ」(アイヒマン?)大学時代に読んだ、あのシベリア抑留を体験した詩人石原吉郎「望郷と海」で紹介された言葉。衝撃だった。確かに、私の意識では、誰かの苦しみが具体的に伝われば、その人を助けたいと「感じる」。テレビである罪なきひとりの、その不条理な死が現実的に事詳細に伝えられる時に、その一人に感情移入するのだ。しかし、地球の知らないどこか、例えば南スーダンなど。その内戦、飢餓、虐殺のニュースで万人単位でその死が報じられても、何も「感じない」。「あぁ、可哀想だな」と思うだけで、次の旅番組で紹介されるグルメを見る瞬間には、それらの人々の死は跡形もなく心から消失している。
 恐ろしいほどの私たちの非人間的な想像力の欠如は、現代世界の好ましくない秩序を形成するデバイスと化し、世界の餓死生産に寄与している。
 想像力の欠如から私たちを解放するのは、想像力の増幅デバイスである。それは、「努力」なくして生まれない。ある人々はその増幅のために「常識、普通を疑うこと」、「五感を磨く」、「好奇心を持つ」、「観察するだけでなく体験する」など様々な実践的提案をする。そしてしばしば、それは企業の新規開発事業の現場の研修などで語られる。企画開発の現場風景。
ただ、思う。そこで拡げられた想像力を世界のためにどのように用いていくべきなのだろうか。
 今も、この瞬間、5秒にひとり、誰かが命を奪われている。

 

松本 利勝

 国家資格キャリアコンサルタント

 産業カウンセラー

 教育カウンセラー

 元中学高等学校校長

#想像力 #餓死

平和な世界

皆が生きていることに感謝し、人権が尊重され、互いにリスペクトし合い、異文化間の相互理解もつつがなく、誰もが許し合い、認め合い決して傷つけあわない。富める者は、そうでない者に惜しみなくその富、知恵、技術を分かち合い、今や個人でも国家でも、そこに経済格差はない。食料は地球規模で分かち合われ、飢えで亡くなる人々は存在しない。もはや人々に利己的欲望は存在せず、妬みも憎しみも抱かない。ただ地球上のすべての人々の幸いだけを互いに願う。すべての国家は武器を鍬や鍬に変える。核兵器他、すべての殺りく兵器も廃棄され科学はただ平和利用のみが了解事項。放浪難民は故郷に帰還し、国のない者は争い無くして国を樹立することが出来る。ハラスメントもなく、いじめもなく、差別もなく、自らの命を絶つ者も存在しない。そして誰でもがその能力に応じて、望む仕事につく機会が与えられる。学歴によって報酬が変わることもない。
自由さえ、求めなければ。

 

松本 利勝

 国家資格キャリアコンサルタント

 産業カウンセラー

 教育カウンセラー

 元中学・高等学校校長

安曇野の林檎

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かつての若い教員仲間が、教員を辞めてパン屋になりました。国産の麦を使って、自作の窯でそれはそれは美味しそうなパンを焼きあげるのです。その工房は安曇野にあり、多くの仲間に支えられています。
安曇野の多くのリンゴ畑も、先の台風で壊滅的被害を被ったとのFB。日本全国で頻発する災害の余りの多さに、言葉を失います。世界を俯瞰すれば、貧困や差別、紛争、難民、テロ、温暖化等、問題は山積しています。わたしも若き日は、それらの問題に立ち向かおうとして、インドのスラムに出向いたこともありました。そこは極端な富と貧困が混在する世界でした。糞尿と濁ったスパイスのような淀んだ空気に眩暈を感じました。帰国して、教育こそがそれらの問題に立ち向かう最も強力な武器であると確信を持ちました。以来、難民問題、環境問題、南北問題、沖縄にかかわる私たちの問題等、教科横断的なプログラムを実施してきたのです。文科省総合学習などを提起する前の時代からです。もう35年前の事です。
確かに、教育こそ世界を変える希望の営みです。今でもそれは正しい手段の一つであると確信しています。
しかし、世間が求める学校教育は、必ずしもそのような路線を支持するものではないような気がします。
本当の教育の現場は、学校ではないところにあるのかもしれません。

 

森よ、宇宙よ、光よ、リンゴの樹よ
      我らに真理の風を響かせよ
               と 渇望する

                          無名詩人

 

松本 利勝

 国家資格キャリアコンサルタント

 

 

自転車君、ごめんなさい

5年前に仙台の単身赴任の教員生活に終止符を打ち、青梅に帰りました。その時に持ち帰ったのが彼の地で購入した電動自転車。ママチャリ的なデザインでその黒い車体がお気に入りでありました。北仙台のアパートから30分かけて電動自転車で勤務先の学校に通勤していました。わたしは車の免許を持っていませんでしたし、東京で仕事をする上ではその必要もなかったからです。仙台郊外にある新しい職場にはバスでも行けますが、バスは多少の雨でも遅延がありますので、通勤には不向きでした。また責任ある管理職の立場では朝7時過ぎには学校についている必要がありますので、機動力のある電動自転車が適切だったのです。多少の雪、降雨でも電動自転車での通勤の日々。近隣の学校への挨拶も電動自転車。突然、東京からやってきた校長。生徒や教職員にしてみればさぞ変な人だったに見えたでしょう。
 その苦楽を共にした電動自転車。都心で再び一人暮らしを初めることになり、久しく乗らなくなって放置すること約一年。先日、台風19号が去った後に、久しぶりに作動点検。すると・・・申し訳なかった! 電気系統がおかしい。通電しない。「あぁ、あれほど世話になった自転車君、ごめんなさい。わたしは、何と薄情な奴。自己中人間 ! ・・・必ず修理するから、しばらく待っていてくれ。君はわたしの頼りない尻の下で見知らぬ街のわたしの孤独を慰め支えてくれた友。」
 人は誰かに、何かに助けられながら生かされている、というこの事実を少しは肝に命じないと。自転車だけでなく。
 

国家資格キャリアコンサルタント

産業カウンセラー

元校長

カウンセリング室から

 カウンセラーにはいろいろな相談が寄せられます。少しだけ、わたしの忘れがたい記憶から。ひとりひとり、慈しみの存在です。
                     (以下の相談者には記載を承諾していただいています。)
●  45歳、男性。
あの夏の日、わたしは母の隣に布団を敷いて、床につきました。福島に半年ぶりにお盆帰郷して。たぶん、母は知っていました。わたしが最後の別れに帰ったのだと。母は何も話しませんでした。わたしも子どもの頃のように、傍らに母の温もりを感じて、おばけのような木目の天井をじっと見上げていました。渇いた涙が頬を伝いました。そのとき、そっと母の布団の中に手を入れ、母の手を握りました。母もやさしくぎゅっと握り返してくれました。いつしか、そのままわたしは心地よく眠りの中に吸い込まれていきました。
 次の日、わたしはいつものように兄嫁の朝ごはんを食して、東京に戻りました。母とたわいもない話をして、いつものように「じゃ、また。もう帰るから」。
そしてその年の秋、母は静かにこの世界から旅立っていきました。末期がんであったこと気づかなかったふりをしたまま。
遠い記憶です。

● 小学5年生、男子
ぼくは今、小学5年生です。ぼくはクラス委員をしています。だからA君と一緒にいます。どうしてかというとA君は勉強もできないし、運動おんちだし、ちびでどんくさいからです。クラスのみんなは、A君をいじめはしませんが、話しかけもしません。でも無視もしていません。なんとなく、そんな感じです。ぼくは、A君がいつもひとりでいるのでかわいそうだから、できるだけ一緒にいるのです。でも、本当はA君と一緒にいるのは嫌なのです。A君は面白い話をするわけでもないからです。なのに、ぼくはA君といっしょにいるのです。ぼくは、そんな自分が嫌いです。

●19歳 男性
ぼくの家は貧しいから、仕送りだけでは部屋代も授業料も払えません。だから、死に物狂いで勉強して大学で良い成績をとりました。給付型の奨学金をもらうためでした。そして、ようやく奨学金をもらえたのですが、ぼくはそのお金を、ある日、ねずみ講にだまされてやくざのようなお兄さんにとられてしまいしました。そればかりか、親友までも悪い仲間に引き入れてしまい、結局ともだちを失いました。
苦しいので、ある日、勇気を出して、大学の白い立派なあごひげのチャブレンに相談したら、彼は、ただ数分黙って聴いて、そして、それきりでした。名前も聞かれませんでした。それ以来、偉そうな聖職者は信用していません。あの時、ぼくは、自分の愚かな失敗を誰かにゆるしてほしかった、ただそれだけだったのです。

 

国家資格キャリア・コンサルタント

産業カウンセラー

元中学校・高等学校校長

松本 利勝

お盆。家族の記憶

実家には父も母もいません。そこにある古いアルバムの家族の写真も、今はわたしと姉二人のほか、見る者もいないのです。わたしの産湯の写真、母の若かりしときの写真、父の軍服写真。わたしが幼児だった頃に小さな家の玄関の前で撮った家族6人の写真。やがて、今や還暦を超えたわたしたち子どもがこの世界から旅立ったとき、このアルバムの写真はどんな意味をもつのでしょう。一体誰がこの写真を見るのでしょうか。いつか、親戚の誰かがわたしの写真を見ながらその家族に「この人はお前たちの遠い親戚だった人たちだよ、確か学校の校長だったように思うけれどもくわしいことは知らない。ひょっとしたら仙台のどこかの学校の校長室に歴代の校長写真の一人として飾ってあるかもしれないね」

などと語るのでしょうか。

人は、その人生の終焉に己の存在意味をどのように確認するのでしょうか。自分はなぜ生まれたのか。その問いにどのように答えるのでしょうか。

しかし、ある賢人の不思議なことばが脳裏に浮かびます。

「人生をどう生きるかではない。人生がお前という人間をどう生きるか、それが問いの立て方だ」自分が主でなくてもすでに与えられているかけがえのない人生が自分という人間をどう輝かしていくのか、それが正しい

問いだというのです。

いつの日かどこかにわたしの古い家族のアルバムの写真が捨て去られようとも、わたしに人生を与える大いなる力ーそれはこの宇宙の神秘ともいえる次元かもしれないーはその記憶の襞にわたしという存在が刻印されるのではないかと思うのです。それこそが、わたしの存在の希望であり、生きたあかしになる。まさしく、この時代に精一杯生きたあかしとして。

お盆の時期、ふと思い出してしまいました。亡き父と母のぬくもり。

 

 

国家資格キャリアコンサルタント

産業カウンセラー

 

 

 

 

 

 

ゴジラは変幻自在のヒーロー

 

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先日、映画「キングオブモンスター」を観てきました。子どもの頃からゴジラ映画には魅了されています。初作品は、1954年です。わたしが生まれる1年前の作品です。長崎、広島の投下されてまだ間もない戦後の時代。わたしが見たのは1964年、9歳の頃。町の映画館で兄と観に行きました。原子爆弾によって突然変異して現れた怪獣ゴジラ。モノクロ映画でリアルかつ臨場感がありました。わたしがはじめて接した放射能の恐ろしさを描いた映画でもありました。ゴジラは、以来、私の中では、恐ろしくも畏怖すべき忘れがたき対象になっています。

さて、今回の作品は、アメリカ版ですが、懐かしい怪獣たちが登場してます。宿敵はあの三つ首のキングギドラです。ゴジラが敢然と戦い、モスラが援軍です。その登場シーンには何と!懐かしきザ・ピーナツが歌っていたモスラのテーマが流れます。ゴジラ映画は、時代により変幻自在。前作の日本版「シンゴジラ」ではゴジラに対して自衛隊がどのような指揮系統で出動し、攻撃するのかがリアルに描かれていました。自衛隊が協力したからだそうです。この点は、現役自衛官も感心していました。(あっという間に公開が終了してしまった映画「空母いぶき」と比較するとどうなのでしょうか)アメリカ映画ではありますが、日本人を意識しているのでしょうか。ゴジラにエモーショナルな日本人の感性が投影されているような気がします。ゴジラは誠、変幻自在なキャリアです。

人生は、いつどのように展開するのかわかりません。予期せぬ大地震、交通事故、病気、尊敬する師との出会い、畏怖すべき出来事などがめまぐるしく起きるのが人生です。ゴジラのような怪獣が出現するかもしれませんし、宇宙から宇宙人がやってくるかもしれません。映画「メン・イン・ブラック」のように。社会情勢も変転流転。現代は社会も人生も確たる未来予想図なども描けない時代ということです。しかし、どんな時代になってもゴジラのように変幻自在に、わたしたちも果敢に生き抜こうではありませんか。