先生たちと生徒たちの心模様

三月は、卒業式の季節ですが、卒業は若者たちだけの出来事ではありません。先生方もまた、夢を目指して教職を捨て、新しい道を歩む人々もいらっしゃいます。

ある若い教師は、熱い思いを持ち、数年間、教壇に立っていました。しかし、思春期の心揺らぐ難しい子どもたちとの格闘に疲弊してしまったのです。そして、一旦、専任教職を辞する決断。

終業式の数日前、その人は、生徒たちに別れの挨拶をされました。挨拶を終え、教員室に戻る途中、いつも授業をうるさくしていたある生徒が「先生が辞めるのは、俺が言うことを聞かなかったからですか?」と神妙に話しかけてきたのです。

生徒たちの心に何が起きたのでしょうか。 わたしには「先生、定年ですか?」と、生徒たち。「まぁ、そうかなぁ。でも、新しい夢にチャレンジしたいんだよ。」と笑顔のわたし。

卒業は子どもたちも大人たちも転機の時。

キャリアとは苦い、時に美しい転機を重ねることでもありますね。

キャリア教育とは、実は人々の人生の心の揺らぎ、悲しさ、喜びに思いを寄せることでもあるのでしょう。

そのような教育に、わたしはチャレンジし続けて行きたいと思います。新しい世界で。

松本利勝

国家資格キャリアコンサルタント

産業カウンセラー

宮沢賢治先生のキャリア

f:id:careersg:20180303113405j:plain教室の宮沢賢治先生

 

 教員もいろいろなキャリアがあります。

 高校時代に国語の教科書で習った宮沢賢治先生のキャリアもユニークでした。わたしも福島の片田舎で生まれ育ちましたから、少しだけ賢治先生のイーハトーブの感覚はわかるような気がします。「銀河鉄道の夜」には宗教的な知見に溢れた作風もあり、理系文系の枠を超えた壮大な世界観が見て取れます。彼は「先生」という職種の中で彼独自のキャリアアップにチャレンジていたのです。

 賢治は、また音楽にも精通していました。岩手盛岡に在りながら洋楽も楽しんでいました。ー例えば、Gavotot/Jean Becker,Haciendaーthe society tango,etc。仙台在住の佐藤泰平先生(元立教女学院短期大学教授。礼拝音楽に関する委員会でご一緒させていただきました)がその著「宮沢賢治の音楽」で詳しく紹介されています。-

 自由な賢治の精神世界、なんと素敵な魅力でしょう。先生と言う仕事も楽しいものです。あと、1か月、学年末試験をして成績をつければ一区切り。また新しいキャリアにチャレンジです。賢治「先生」のように。しばらくしたら、賢治の聴いた音楽を蓄音機で聴けるようなミニ企画でもしたいものです。三月、盛岡でされるようですが。

松本 利勝

国家資格キャリアコンサルタント

産業カウンセラー

元 校長

 

 

 

 

 

人はなぜ努力するのだろう

 しばらく、考えていました。人はなぜ、努力するのだろう、と。(きょうは観念的なお話しでつまらないかもしれませんね。)時に平昌オリンピックを見ながら。選手たちは、おそらく想像を絶する努力をしてオリンピック選手に選出され、なおかつ、そこで活躍するなど、もはや超人としか思えません。オリンピックに限らず、人は何事かを成し遂げようと努力します。必ずしも世に認められなくても、です。

 わたしも、努力したことがないわけではありません。中学1年生、野球部時代、わたしは捕手でしたが、どうしても二塁まで球が届かず、悔しい思いをしていました。毎日、帰宅して、家の前の堤防から川に石投げをして鍛えました。そして二年生の夏、ついに、二塁まで球が届いたのです。監督が褒めてくださったその瞬間、言いようのない達成感に満たされたことを思い出します。

 大人になり、還暦を越えた今、あらためて人はなぜ努力するのか、ひとつの結論に至りました。笑われるような考えかも知れませんが。それは、自己と宇宙が一つになるためではないかと。この宇宙の構成物質の未だ解明されぬ何らかの法則があるならば、自己の存在の究極の姿から発せられるエネルギーが宇宙の根源的な法則と一致したときに、人は、時空を超えた命の本質を感得する、そう考えることはできないでしようか。人は無意識、無自覚にその神秘の感覚を求めているのではないかと思うのです。少年のわたしが二塁まで球をノーバウンドで投げきった、あの感覚は、まさにそのようなものでした。

  このような論理は、もちろん昔からプラトンや仏教の哲学や宗教の世界で論じられてきたことですが、それらはこの世界の真理を何とか、言葉で説明しようとした軌跡のように思えるのです。

 今夜、オリンピックは終わりましたが、人が努力する意味をあらためて考えさせられました。人の命は、いつか塵に帰るものですが、決して虚無の中に消失してしまうわけではないのでしょう。それは努力と言う魔法の力によって、証明できるもの、そのように思えます。この問いは、実は神学生時代から探求してきた問題でした。

 オリンピック、素敵でした。

 

松本 利勝

国家資格キャリアコンサルタント

産業カウンセラー

元校長

 

 

 

 

 

授産施設での就労

一昨日、東京のある知的障害者の作業所に出向きました。私が役員をしているある法人にたまたま出入りするようになったAさんが、その作業所で就労していることがわかったからでした。Aさんの障害特性がその法人に集まる人々に対するハラスメントになり、また社会的に容認されぬストーカー的なものであるために対応を考える必要があったのです。法人の人々はAさんにあまり関わりませんが、心優しい人々なので無視もできず、どう接すれば良いか、判断に迷っています。

Aさんは壮年です。幼い頃から父親からの虐待を受けて育ちました。やがてイジメを受けるようになり、また、進級すると、障害児クラスに変わったそうです。中学をなんとか卒業し、いくつかの会社、施設で就労しますが、人間関係を作れず、長くは継続できず、最終的に受け入れてもらったのが現在の作業所です。現在は母親と2人暮らし。経済的には裕福で母親はかなりのお小遣いをAさんに渡し、Aさんはそれをほとんどお酒につぎ込みます。アル中になるほどに。因みに老いた母親も人間関係構築に困難さを抱えています。

その日、集まったのは私以外に行政の福祉課、地域支援関係の福祉施設スタッフなど計7名。それぞれ経験豊かな支援のプロでした。情報共有の大切な時間でした。これからAさんにどう関わるか、とても難しい問題です。

今回の経験から痛感するのは、私も含めこのような福祉の現場、労働環境の実態を知ることなくして、障害者の就労について語ることは出来ないということです。支援する人々と共に考えて行くことから次のステップを見つけて行くのがこれからの私の役割です。

まだ寒い風が吹きます。遠くに見える富士山が綺麗です。皆さん、また。

松本利勝

国家資格キャリアコンサルタント

産業カウンセラー

元校長

人生で求めたものは何ひとつ与えられなかった・・・

 

  大事をなそうとして
  力を与えてほしいと神に求めたのに
  慎み深く従順であるようにと
  弱さを授かった

  より偉大なことができるように
  健康を求めたのに
  より良きことができるようにと
  病弱を与えられた

  幸せになろうとして
  富を求めたのに
  賢明であるようにと
  貧困を授かった


  世の人々の賞賛を得ようとして
  権力を求めたのに
  神の前にひざまずくようにと
  弱さを授かった

  人生を享楽しようと
  あらゆるものを求めたのに
  あらゆることを喜べるようにと
  生命を授かった

  求めたものは一つとして与えられなかったが
  願いはすべて聞きとどけられた
  神の意にそわぬ者であるにかかわらず
  心の中の言い表せない祈りはすべてかなえられた
  私はあらゆる人の中でもっとも豊かに祝福されたのだ

 

    (米国NY大学付属病院リハビリセンターのロビーレリーフの詩。作者不詳)  

 

 人生は決してきれいごとではありません。とてつもない喜びー例えば子供が生まれた奇跡の時などーもありますが、耐えがたき苦しみの時ー例えば不慮の事故で父親が亡くなった時、また信じていた人からの裏切り、同時に裏切った時などーもあります。誰からも理解されない憤りもあるでしょう。他者の思いを理解できない悲しみもあるでしょう。赦しを求めても赦されない痛み、また赦せない苦悩もあるでしょう。人生は、不可解で混沌としています。しかし、人生は生きるに値します。

 

 これまでの36年間の教員生活で、卒業生たちに贈ったことばが、上記の詩です。なんと示唆に富む深い意味のある言葉でしょう。私自身も、この言葉に励まされてきたので、生徒たちにも伝えたかったのですね。今年の3月で中等教育で教えることは卒業。自分に贈る言葉もこの詩です。

 

松本利勝

国家資格キャリアコンサルタント

産業カウンセラー

元自衛官の唐揚げ屋さん

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(青梅駅から5分「青梅チキン」早期退職元自衛官が始めた小さなお店)

 

青梅の町は、市民マラソンの発祥の町です。ですから、町には、マラソンの練習をする人々が少なくありません。そんなランナーのひとりの男性(52歳)が、ふとした出会いからから揚げ屋さんをはじめました。彼は元自衛官。通信科、体育学校等で勤務。地下鉄サリン事件対応、三宅島大噴火等の災害派遣隊として活躍されたそうです。出身は茅ヶ崎。田舎暮らしにあこがれ、6年前に青梅に移住したとのこと。

自衛隊の皆さんは、階級にもよりますが、53歳の誕生日に退職する決まりです。しかし、彼は

早期退職し、自分の新しい生き方、キャリアを求めて、青梅でから揚げ屋さんを開店したのです。人柄は素晴らしく誠実です。ただ、から揚げのお味は、これから。乞うご期待です。

ところでオーナーであるおばさんがお店で一緒に働いて接客指導をされていました。そして「この人は本当に真面目なんですよ」と笑いながらおっしゃっていました。確かに、彼はまじめを絵にかいたような人です。

「わたしは笑顔をつくるのが大変なんです。命令されないとなかなかできないんですよ。でも、これからは笑顔で命令されなくても頑張ります!」そう明るく語る彼に心からエールを送ります。

 

松本 利勝

 国家資格キャリアコンサルタント

 産業カウンセラー

 元校長

 

 

ふと、思い出した初女さんのおむすび

f:id:careersg:20180116210136j:plain(佐藤初女さんのおむすび。2016年に亡くな   る。94歳であった。)

 

 初女さんのおむすびは、人の癒しのおむすびであったという。青森岩木山のふもとに1992年に「森のイスキア」というお宿?を開設。手料理をふるまいながら、悩む人々の心に寄り添った。有名人になったが、その姿は、ただの心優しいおばあさん。哲学的でも道徳的でもなく、難しい理屈、悟りも強いない。あるのはあたたかい手料理のおもてなし。何よりおむすびは絶品だったとのこと。「おにぎり」でなく「おむすび」。生きることに疲れた人々が、一体どれほどの人がそこで生きることの希望に「むすばれた」のだろうか。

わたしも、子どもの頃、遊び疲れて家に帰ると母が生みそを表面につけただけのおむすびをほおばった。亡き母の手のぬくもりの、あのおむすびを今でも思い出すことが出来る。母も人に優しい人だった。それは初女さんのイメージに重なるのである。

初女さんは、元小学校の先生であった。退職されて新しいキャリアを目指した。それは彼女自身にも彼女に出会った人々にも希望を与えた。わたしもそんな元教員になりたいな、とそんな気持ちが浮かんだが、日々の感謝すらおぼつかない自分には無理だろう。しかし、今度ひそかにおにぎりを作ってみようかと思った。どなたか食べてくださるとうれしいのだが。ささやかな野望かもしれない。

 

松本 利勝

 キャリアコンサルタント

 産業カウンセラー

 元校長