被災者支援されたあなたへ

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働くことは、誰かと何かを通してやり遂げること。それはドキドキワクワクハラハラクタクタ体験でもあります。生きてる実感は、まさにそこにあるのではないでしょうか。

近年、退職前の自衛官の再就職支援のコンサルティングや授業を担当させていただいています。そこで驚くこと、あまたありますが、ほとんどの隊員が海外での稀有なPKO体験や、また東日本大震災被、福島原発事故被災者支援に関わっていらっしゃるということです。その支援は時に命をかけるものでもあったはず。

ご遺体を目にすることも、涙を堪えて支援、救出する任務も黙々と遂行されてきたはず。にもかかわらず、その素晴らしさをあまり自覚されてないように思います。

その体験は、普通の日本人は未知のもの。もし、その体験から学んだこと、スキルを言葉で民間人にもわかるようにイキイキと誇りを持って表現されたなら、自衛官の皆様への共感は増すでしょう。命を守る使命を立派に果たしてこられた人が、退職後の民間の世界でも通用しないはずがないのです。

ただ、それだけで現場の即戦力、実務能力を発揮出来るわけではありません。自衛官時代に身につけたその素晴らしい力は、具体的な実務的スキル、資格、実習体験などによって培った力と合わさってはじめて採用に至るのです。いわゆるエンプロアビリティ(雇用され得る力)の獲得プロセスです。

コロナ禍の中のみならず、社会はいつでもその組織を愛し、命をかけて「命」を守るプロを求めているのではないでしょうか。

カウンセリングルームから 2

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このコロナ禍緊急事態宣言発出後、市ヶ谷にある某カウンセリングルームに通うことができなくなりました。毎回、お話を伺っていました方々が心配です。深刻な方は、電話などでは寄り添いが難しい場合が少なくないからです。

ところで、コロナ禍ではカウンセリングもキャリアコンサルティングもオンラインにならざるを得ない場合が多いようです。しかし、オンラインであれば、日本全国のキャリコンさん、クライアントさんとお話は確かに可能にはなります。弊社もそのような流れから最近は様々なキャリコンの方々とズームでお話させていただく機会が増えています。

ほとんどのキャリコンさんは、さすがに爽やかな笑顔、傾聴力があり、かつ親しみを与えるさらりとした自己開示がお出来になります。

しかし、ごく稀に、笑顔なし、過去の業績自慢、資格自慢で失望することがあります。プライドが高く、まるで学生に教授するような雰囲気の方に遭遇します。

私たちは、セミナー講師をする際には、笑顔、挨拶、真摯な姿勢は基本であると考えていますが、そのような方にはその片鱗も感じることができません。確かに一般企業、官公庁、学校での一度きりの仕事では、それでも成り立つ場合もあるでしょうが、クライアントにはいつかばれてしまう浅はかさ。50代、60代になり、それなりに実績を重ねた方に、本当の評価は伝えるのは至難の業です。そうしてご本人には、変わるきっかけはなかなか与えられないのです。悲しい裸の王様。美しく、かつ豊かに歳を重ねていくのは、容易ではない、ということでしょう。そう言えば、かつて、学校教師であったとき、年配の先生には、誰も助言できなかったことを思い出します。どの組織でもそれは難しい。私もまた、近年ダメ出しをしてくれる方が少なくなりました。裸の王様、井の中の蛙、お山の大将の自分がいるのかも知れません。

さて、そろそろ雨があがりましたかな。太陽がどこかにあれば虹も見れる🌈のですが。

松本利勝

国家資格キャリアコンサルタント

産業カウンセラー

教育カウンセラー

防災士

元中学・高等学校校長

正月のドラマ 相棒

お正月にドラマ「相棒」を観ました。

愛する息子を冷酷な、罪意識の片鱗すら持たぬ者に無残な死に至らしめられた父親の物語。主人公の右京は、正しい答えを語る。自分は遠くで助けを求めるあなたの息子と目の前に倒れる者のどちらを救うべきか、を問われたが、極限状況で命の選別を迫られるとき、トリアージの原則に従う、と。つまり、助かる可能性のある在る者に優先順位があるということ。しかし、父親は、その判断の正しさを認識はするが、心は、認めない、と胸を掻き毟りながら叫ぶ。

自分が属する共同体の一般的倫理的正しさの基準の妥当性はどこにあるのでしょう。このドラマの面白さは、ここに在るように感じます。

かつて学校の教師であったとき、生徒らに道徳は教えないと決めていました。金八先生的善意は現場では通用しませんし、学校が決めた決まりも絶対ではありませんから。立場は校則、常識ーどんな命もかけがえのない命であり、愛される価値ある存在であるーなども教えるべきものではありませんでした。ただ思春期の生徒たちに伝えられていたかは、わかりませんが。 もちろん、確かに人の価値は平等であるべきです。

教師が語るべきものは、道徳でも倫理的な教訓でもありません。ギリシャや日本の古代神話、聖書などの古典にはその人間の残酷な真実、愛することにおいて真実と常識や道徳は多くの場合、相反することが描かれています。伝えるべきことは、まさにその事実でした。そのようなことを思い出しています。

ドラマ「相棒」、しばらく目が離せません。

松本利勝

国家資格キャリアコンサルタント

産業カウンセラー

教育カウンセラー

元中高校長

シュワキマセリ

シュワキマセリ。それは不思議な響きのことばでした。小学4年生のときに、優等生の男の子が洒落た半ズボンをはいて、講堂でみんなの前で披露したのがその歌。大人になり、神学を学んでからそれが「主は来ませり」ということばであることを知りました。しかし、その意味は難解。主とは誰のことか。日本の神仏との違いは何か。神概念は人が作り出した社会安定装置に過ぎないのではないか。キリスト(救い主)とはどのような人物か。救い主が貧しき大工夫婦の子として生まれた物語の意味は何か。神が人として生まれ、無残な死刑囚として処せられ、かつ復活するこの物語の意味は何か。その男が今も「主」として信じられている不思議。あれから40年以上の年月。「シュワキマセリ」の響きは依然神秘のままなのです。

 

昨日、子供向けの番組で有名な児童文学のお話が紹介されていました。オスカー・ワイルド「燕と王子(幸福な王子)」。

 

町の中心にたてられた豪華な王子像と燕の物語。ある日、燕が飛んできて、一休み。すると水が降ってきました。それは王子の涙。王子は語るのです。生きている間は涙など流したことなかった。でも、像になり高いところにいると町の悲しいことを知るようになった。だから王子はそれらの人々に己を飾る金銀財宝のすべてを燕の手助けで届けたい、と。やがてサファイヤの瞳すら与えてしまう王子。さらに身体を覆う金箔すらも。いまや見るもみすぼらしい像。誰も見上げる者はいない。石をなげつけられるだけ。極寒の冬になっても燕は王子のもとを去らず、小さな命を失う。二つの魂は天使によって天国に運ばれる。

 

この物語はセンチメンタルな次元のものではないでしょう。

番組制作者がなぜ、クリスマスのこの時期に、この物語を子どもたちに届けたかったのか、その意図を知る由はありません。

 

「シュハキマセリ、シュワキマセリ」今も不思議な響きです。

 

 

 

 松本利勝

国家資格キャリアコンサルタント

産業カウンセラー

教育カウンセラー

元中学・高等学校校長

虎にならないための冒険

中島敦の「山月記」と出会ったのは高校の国語の教科書でした。プライドを捨てきれずに世を嘆き、他人の成功を妬み恨み、いつしか虎になっていたという物語。私たちの本性を見事に活写していました。何故に高校生の私が魅せられたのか思い出せませんが、虎になるほどの取り返しのつかない己の醜悪さに気づかず、悔いる主人公の姿に涙したものです。

人生に悔いは残してはならぬ。そのように今、思うのです。たとえ悔いのように見えても、それはオーガニックな人生の糧になるとも。

 

過日、はじめて「ブルージンズ」をユニクロで買い求めました。これまでは、自分には似合わないであろう、と思っていたのですが、同僚のY氏が一度はいてみては?とすすめるので、それなら一度、と。すると、何と心地よい。しかも、お世辞とはいえ知人が「違和感はない」とも。というわけで、今は銭湯に行くときは「ブルージーンズ」になりました。

 

さらに、昨日、少しだけ時間が取れたので、初めて「異業種交流会」なるものに勇気を出して、えい!と参加してみました。65歳の高齢者なる自分がどのように反応するだろうか自己探索、と。まずネット検索でリサーチ。感染防止対策は前提。リーズナブルな新宿ルミネエストの喫茶店風の気楽なお店に。集まったのは6人。若い20代から40代の異業種の男女。わずか2時間ほどのお話会。自己紹介から始まり、流れで会話が進みます。目的はそれぞれでしょうが皆さん真摯でした。わたしは、好奇心。行動することで、偶然を引き起こすその偶然が私に何をもたらすのかは未知数の世界。しかし、すべてはこれからの私のキャリア形成に影響を及ぼすでありましょう。

 

この二つの出来事は、結果をネガティブに予想せず、まず「行動する。見て、聴いて、考え、次に進む」ことによる自分の精神性、身体性を研ぎ澄ます面白い志向でした。

 

さて、次は何に挑戦しましょう。思案中ですが、星空の美しい田舎町に出かけて、子どものころに見た煌めく満天の星、天の川は今でも、この自分がそのように見えるのか確認することかもしれません。虚空に咆哮する悲しみの虎にはなりたくないのです。

松本 利勝

国家資格キャリアコンサルタント

産業カウンセラー、教育カウンセラー

元中学校.高等学校 校長

中村哲氏からのプレゼント

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青梅の友人が、写真展を企画しました。あの中村哲氏の写真展。アフガニスタンで宗教、民族、立場を超えてアフガニスタンの人々と一緒に生きた人。テロに命を奪われるその瞬間まで、自ら汗を流し、砂漠を緑の畑に変え、医師としての立場をはるかに超えたその生き方は、アフガニスタンのみならず世界の歴史の中に記憶され続けるでしょう。友人は、彼の中に人としてあるべき姿を感じ、世間の人々に伝えようとしています。

中村哲氏。私もかつて、勤務校で彼の講演会を準備したことがありました。教育の主たる目的は、中村氏のような生き方を生徒たちに問うことにあったからです。その時は、氏の帰国スケジュールが確定出来ず実現はかないませんでした。

さて中村哲氏のライフテーマは、何だったのでしょう。アフガニスタンの内戦の最中、民主的な発想、真摯なヒューマニズムなど全く通用しない、ときに不条理な世界にも見える遠い異国の地で何を実現しようとしたのでしょう。

人は、何のために、どのように生きて、死んでいくのか。再就職に悩む中高年の人々にとっても新しいライフステージをどこに求めるのか、中村哲氏の生き方は問い続けているように思います。

松本 利勝

国家資格キャリアコンサルタント

教育カウンセラー

おじいさんの一人称

不思議なことがあります。

わたしが、子どもの頃、映画やテレビドラマに登場するおじいさんたち、ご自身のことを「わし」と呼ぶことが多かったのです。当時、それはとても自然なことでしたが、65歳になった自分も、同世代の仲間たちも誰も自分を「わし」とは呼んでいません。これはたまたまなのでしょうか。

ところが、未だに映画やアニメに登場するおじいさんの一人称は結構な頻度で「わし」のような気がします。気のせいでしょうか。データをとると面白いかも知れませんが、現在の男性高齢者、一体どのくらいの人数がご自分を「わし」と呼んでるのでしょう。

尊敬してやまない某名誉教授もブログでは「ぼく」ですし、その他の友人たちもせいぜい「わたし」です。孫の前では、「おじいちゃんだよ」とは言いますが、孫に「わしはなぁ」とは言いません。

もし、どこかに、「わたし、俺、ぼく」から「わし」に変えた方がいらしたら、そのきっかけと何歳の時であったかを教えていただきたいものです。

たぶん、わたしは、ビジネスマナーの必要でない場面ではいつまでも「ぼく」と言い続けるでしょう。おじいさんは「わし」という一人称というステレオタイプイメージへの密かな抵抗。

松本利勝